縁がある人とは離れてもまた繋がる その2

出逢いにはいろんな出逢いの形がある。血の繋がった親子や兄弟でもウマが合わなかったり、他人でもなぜか第一印象で懐かしく感じたり、フィーリングが合ったりするのはなぜなのだろう。私自身の過去の恋愛関係や人間関係の軋轢の体験から「今の私にとって必要な学びは何なのだろう?」「この体験を通して私(と相手)は何が課題なのだろう?」とスピリチュアルな視点で視た際、過去生の体験が今生の私とその相手に影響を及ぼしているのだと気づくことが多々あった。もちろん、過去生に重点を置くことが最重要では無いこともある。別の記事で、そのことも触れたいと思うが、今回は現実面での不思議な再会を反芻したい。

【キリスト教では輪廻転生やカルマなどの概念は無いが(しかし聖書では輪廻転生のことが書かれてあったが、553年コンスタンチノープルで開かれた、ニカイア会議と呼ばれる宗教会議で、教会の支配を強めるために輪廻転生の思想を削除してしまった。)、インドのヒンズー教ではサンスクリット語でカルマ(良いことをすれば良いことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起こる)、仏教では業(ごう)と呼ばれ、輪廻思想が当たり前になっている。】

ヒンズー教を信仰する外国人との不思議な出逢いは、7年ほど前になる。イベントの帰りに自転車で橋を渡っていると、その外国人 名前をBさんと呼ぶことにする。 から声をかけられた。実は、その声をかけられる数秒前に、身体中を光のような、まっすぐで力強い何かが突き抜ける感覚を体験した。その感覚はすぐに収まったので、一言で表現するのは難しいのだが、「気づきなさいよ!」的な、上からストレートに降りた感覚があった。その直後に、なぜかBさんから声をかけられた。

その後、橋の下で、片言の英語や日本語を交えて、お互いの簡単な自己紹介をし、Bさんの信仰する宗教がヒンズー教だということで、カルマやチャクラ、バガヴァッド・ギーターなどの話をした。Bさんとは1年半以上 友人として交流はあったが、お互いの価値観の違いやズレから、ぱったりと連絡を取り合うことは無くなった。

全く連絡が途絶えたかに思ったが、その最後の別れから5年ほどが経過した仕事帰りに、偶然会う機会が再び訪れた。しかも、前日、私は別の友人に、「以前、Bさんという外国人と●●橋で出会ったことがあって、何してんだろうな〜」と、話をしたばっかりだった。再会した場所は、私の家からも職場からも●●橋からも離れており、私が普段通らない繁華街の路地がいくつも入り組んだ一角だった!  その日は、私は修理していた眼鏡を受け取るためにいつもの帰宅ルートとは別ルートで通ったのだが、その繁華街は何度も通ったことがあるはずなのに、なぜか道に迷ってしまい、スマホで検索するために自転車から降りることにした。その路地裏は自転車でスピードをあげて通るには、危険なエリアだったため、自転車を押して足早に歩き、帽子を被った外国人の横を追い越そうとした時、その外国人から気さくに「ハロー!」と声をかけられた。フッと眼を見たとき、それがあの7年前に出会い、しかも昨日どうしているのかなあ、国に帰ったんだろうなあと噂していたヒンズー教のBさんだったのだ!私は、視えない存在たちのイタズラというか、もしそういう存在が仕組んだのだとしたら、笑い転げながら手を叩いて この茶番劇を面白く見物しているんだろうなあと想像してしまい、奇妙なめぐり逢いにおかしく思えた。

Bさんは、当時は●●橋の近くに住んでいたが、今は違う場所に引越していて、仕事終わりになると、時たま繁華街を散歩する習慣になっているとの話をしてくれた。そして、私が初めて出会った時の身体の不思議な体験を話すと、「もしかしたら私たちは前世では夫婦だったのかもしれないね」とサラッと前世があると信じているヒンズー教らしい回答が返ってきた。Bさんは既婚者であり、私はBさんに対して恋愛感情というものは抱かないため、今生では友人としてのお付き合いで留まっているが、縁がある人とは離れても繋がるという偶然の忘れられない驚きの再会だった。

ヒンズー教や仏教の東洋思想に基づくのならば、これも輪廻転生のなせる出逢いか、生まれる前にお互いが決めてきた青写真の一部なのだろうと思う。

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